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〈書評〉「道具をつくる道具」を、活かすお手本を見た—上平 崇仁 (専修大学ネットワーク情報学部教授)

revised: 2021 / 09 / 02

INFORMATION

『無料データをそのまま3Dプリント
作業に出会える道具カタログ/事例集』
書評:上平 崇仁 (専修大学 ネットワーク情報学部 教授)

林園子氏・濱中直樹氏による「無料データをそのまま3Dプリント 作業に出会える道具カタログ/事例集」(三輪書店)が、2021年6月に出版された。タイトル通り、利用シーンや出力時間で整理され、QRコード経由で実際に使うことができる3Dプリントのデータ集であり、活用事例集である。・・・そう書けば、いわゆる「便利そうな本」に聞こえるかもしれない。ところが、それだけに収まらない独特の深さを持つ本なのである。


作業療法 ✕ 一人ひとりと向き合うデザイン

本書に収録されているさまざまな道具は、作業療法の世界、いわゆるケアやリハビリが必要とされる場で利用されるものが中心となっている。まず、ここで、作業療法で言う「作業」という言葉は、いわゆる単純作業の“作業”とは意味が違うことに注意しておきたい。接点がない人にはあまり知られていないが、作業療法で言う「作業(Occupation)」とは、日常生活とともにある家事、仕事、趣味、遊び、対人交流、休養など、人々が営むさまざまな生活行為と、それに必要な心身の活動を含む概念であり、この言葉のなかには、「できるようになりたいこと」「できる必要があること」「できることが期待されていること」など、一人ひとりに固有の目的や価値までも含まれている。

この作業療法とパーソナルファブリケーション(個人によるものづくり)は、実はものすごく相性がいい。なぜなら、作業療法士たちは、当事者たちの「作業」への〈出会い〉に立ち会い、「作業」を可能にするために道具をつくる。人の行為をつぶさに観察し、一人ひとりと向き合ったデザインを実践するエキスパートでもあるからである。著者の林園子氏は、その相性の良さにいち早く気づき、おそらくいまの日本において、両者をつなぐ可能性をもっとも深く掘り下げている人だ。

著者らが運営するファブラボ品川では、障害の有無に関係なく、誰かの暮らしを便利で楽しくする道具を「自助具」と呼び、その生み出し方を参加する人々とともに実験しつづけている。たしかに、目の前にいる困りごとを抱える当事者自身を「助けている」モノであり、同時に、一人ひとりに合わせたモノを介して、周囲の人々が間接的に「手助けすることを可能にする」モノでもある。

考えてみれば、我々はついつい自分の身体のことを無意識的に捉えがちである。思い通りに動いてくれるのが当たり前だ、と。でも、例えば、なんらかの事情によって片手が使えなくなったとしよう。あなたは、靴紐が結べるだろうか。まな板の上で野菜が切れるだろうか。Nintendo Switchで遊べるだろうか。そんなときにこそ、量産品ではなく、一人ひとりの身体や状況にあわせてパーソナライズされた自助具が必要になる。〈わたしが〉靴紐を結ばずに靴を履くことができる紐靴エイド。〈わたしが〉片手で調理できるように工夫されたまな板。〈わたしが〉Nintendo Switchを片手で楽しく操作できるコントローラー。

それらは決して万人が常に必要とするものではないけれども、必要とする人にはぴったりはまる、そこだけの居場所を感じさせる。作業療法から生まれたものではあっても、決してその世界だけに限定されるものではない。3Dプリンタは、それらを可能にする。デジタルデータを書籍という手段で運ぶことで、これまで届きにくかったところまで拡張されていく。


創造性は周囲の環境によって変化する

本書にまとめられた活用事例は、個人によってものづくりが拡張できることを実証しており、実に素晴らしい。でも、その一方で、違う方向を見れば別の景色が見える。3Dプリンタを始めとしたデジタル工作機器が普及して随分経つけれども、社会の中での裾野は、当初喧伝されたほどには広がっていない気もする。流行りに惹かれて買ってはみたものの、ホコリをかぶってしまっているマシンも多いようだ。この違いは、いったいどういうことなんだろう。

僕は私立大の情報学部で教員をしているので、若い世代のものづくりを見る機会は多いのだが、確かにうちの学部でも3Dプリンタはあまり使われていない。3Dソフトの扱いは複雑だとか、自分でモデリングするのはハードルが高いとか、いろんな理由を見つけることができるだろう。けれども、その理由を考えていけば、現代の社会が抱えるもっと大きな問題点に行きつく。

それは、いまの多くの都市生活者たちが、消費に最適化されすぎ、あまり創造性を必要としない環境の中に生きていることだ。デスクワーク中心の生活では、身体を使わず必要最小限の操作だけですませることができるし、衣食住に必要なだいたいのものはすでに揃えられている。そして100円ショップにいけば、安価な便利グッズや素材が並べられている。負けじとECサイトの方も「安くするから買え」とばかりにどんどんセールを知らせてくる。

改めて見渡してみれば、人々は「消費者」の立場でいることが当たり前になり、既製品の寸法に自分をあわせることに対して、疑いすら持てなくなっている。本当は自分で生活する中で困りごとや違和感を発見することができるはずなのに、それに気がつく順番までいつのまにかすり替わっている。熱心にやっていることは、あふれかえる選択肢から「買うか買わないか」を決めることだけだ。我々はいつから道具を自分でつくれなくなったのだろう?

そんな環境の中で生きていれば、自由自在にモノをつくりだせる装置が近くにあったところで、使い道を見いだせないのは、ある意味当然と言えば当然かもしれない。


「道具を作る道具」を活かすには

逆に、そんな環境に裂け目が生じれば、状況は一変する。思い通りにならない不便さや不自由さに直面したとき、人は本気で道具をつくりはじめる。自分自身の可能性を取り戻すために。あるいは共感する身近な人の力になるために。そんな経験を通して、人は自分自身が周囲をつくり変えていく力を、本来的に持っていることを発見する。創造性は、安定した環境よりも、葛藤をなんとかしようとする中で発揮されるのだ。

そう考えると、3Dプリンタという「道具をつくる道具」が活かせるかどうかは、単独のテクノロジーの使い方の問題ではなく、周囲の状況を含めた関係性を含めて捉えなくてはならないことは明らかだろう。本書に掲載されている道具たちは、「居場所」を持つ。〈場〉をとりまく人々のネットワークとともに在る。それらは、全ての事例に丁寧に記載されたストーリーによって、はっきりと確認できる。そこを見逃してはならない。

さらにいえば、それらは、ちょうど〈あいだ〉に生まれている。困りごとを抱える当事者だけでもなく、ケアの専門家だけでもなく、デザイナーだけでもない。道具、いや「道具をつくる道具」がその境界をつなぎ、異なる領域にいる人々のコラボレーションを新しく生成しているのだ。

本書は、便利な事例/データ集としてだけでなく、可視化されにくいダイナミックな実践的な活動の記録としても読むことができるだろう。それは消費傾向の強まる最近の生活の場とはまさしく対極にあるような、生き生きとした創造が埋め込まれた共同体づくりの優れたお手本となるに違いない。